インド瞑想の旅 その11 -最終章 聖地ラドヌーン

昨年10月に訪れた国際瞑想キャンプから、もう4ヶ月半が経とうとしています。
あと1ヶ月もしないうちに桜が咲くことでしょう。
あっという間です。

インド訪印4度目、3回目のラドヌーンでしたが、前にもお話したように、私にとっては、ラドヌーンは特別な場所です。

ジャイナ教の瞑想法「プレクシャ・ディヤーナ」の「国際瞑想キャンプ」に始めて参加したのは、2007年インド・ウダイプールでした。
インドに行ってみたいという20数年来の願いが叶えられたこともあり、コーフンしていました。
プレクシャ・ディヤーナをまだ学び始めたばかりの私には、男性出家修業者であるムニ(Muni)や女性出家修業者サドヴィ(Sadhuvi)たちとの出会いに驚きと感動を覚え、講座での教えは新鮮でした。
でも勉強したてで、最初はチンプンカンプンで理解するところまでは、到底達していませんでしたけどね。(^_^;)

2回目に参加した2009年のキャンプ地は、ジャイナ教テーラパンタ派の本部があるラドヌーンでした。
ラドヌーンは第9代最高指導者の故アチャリア・トゥルシー師の生誕地なのだそうです。
ニューデリーからバスで8~9時間かかるラジャスタン州の西に位置する砂漠地帯です。
そこはインドでは当たり前の喧騒とカオスの街とは、一線を画した場所です。
塀に囲まれた広大な敷地は、静かで、掃除が行き届き、花が咲き、孔雀やリスが遊び、木陰の風は爽やかです。
そこには、白い僧衣をまとい、マスクをしたムニやサドヴィ、そして出家修業者を目指すサマンやサマニ、学生のムムクシュさんたち、そして在家信者の方々やプレクシャ・ディヤーナを学ぶために集まった人々がいます。

サドヴィとサマニたち

サドヴィとサマニたち

みんな誰もが穏やかに笑みを浮かべて挨拶を交わし合い、眉間にしわを寄せて忙しく動き回る人は一人もいません。
心地よい安堵感が漂い、私は幸福感に満たされ、誰にでも優しくなれ、そして自分自身を許し、好きになれる空間です。
これほどの充足感を得られたことは初めての経験でした。

子供たちに囲まれて

子供たちに囲まれて

ジャイナ教のテーラパンタ派では、最高指導者のアチャリア(Acarya)が1名、その下に次代アチャリアとなるユバチャリア(Yuvacarya)が1名。
当時、ムニ(Sadhu=サドゥー)は約160名ほど、サドヴィは約500名以上。
出家修行者を目指すサマン(Saman)1名、サマニ(samani)約100名がいました。
その下に将来、出家修行者やサマン、サマニーになるための準備をしている学生をムムクシュ(Mumuksu)と言い、サンスクリット語で「解脱を希求する者」という意味だそうです。
パーラマールティク・シクシャン・サンスター(Paramarthik Ziksan Samstha)というムムクシュの学校があり、15歳から30歳までの(年齢制限はなし)女性が学んでいました。

テーラパンタ派の出家修業者は、移動が困難な雨期の4ヶ月を除いて、1年の大半はインド国内を徒歩で移動する(それも裸足で)遊行という過酷な生活を送っています。
同じジャイナ教の他の宗派と違い、歳をとったり、病気になったりして、遊行生活ができなくなった修行者のために。介護施設があり、若い出家修業者やサマン、サマニーたちが交代で面倒を見ています。
このシステムは他の宗派にはないものです。
なんて素晴らしい助け合いでしょう。

学校や施設を見学させてもらった時に、ベットに横たわっていた80歳くらいのサドヴィがいました。
そのベットには布団などはなくダンボールが敷いてあり、その上に白い布が1枚覆っているだけのものでした。
これはアチャリアであっても同じです。
老齢のサドヴィは日本から来た私たちのために、ベットから起き上がってくれたのですが、そのサドヴィに祝福をもらおうとおそばに寄ったとき、私は十数年以上も寝たきりの母のことを思い出し、突然涙が溢れて止まらなくなったことがありました。
そのサドヴィは穏やかで慈愛に満ち、本当に優しい方でした。
その後どうされたでしょうか。

2007年のウダイプールのキャンプで、たった一人のサマンであるシッダ・プラッギャ師に、教えを受けました。
「忍耐せよ」「反応してはいけない」というお話。
その頃、入社以来ずっとついている上司の下で仕事をしていましたが、毎日のように悩まされ、同僚とともにかわりばんこに口内炎が出来ていました。(^_^;)
「怒りを覚え、カッとなってもすぐ反応してはいけません。まずは深呼吸をして姿勢を正し、目を閉じて呼吸だけに集中し瞑想をして心を静めなさい。」と教えてくれました。
そこですぐに私は小学1年生のように元気よく手を挙げました。
「仕事中に目を閉じて瞑想などしたら、すぐ上司に「なに寝ているんだ?」と言われてしまいます。どーしたらいいでしょうか?」と質問したのです。
彼はにっこり微笑んで、「すぐに感情をコントロールできそうにないときは、その場を離れるのが一番です。お手洗いなどに行くといいでしょう」
すぐさま私はまた手を挙げました。
「机の前を離れられない時は、どーしたら良いでしょうか?」

私はその頃、よほど切羽詰っていたんでしょうねェ(^_^;)
彼はちょっと考えてこう答えてくれました。
「その時は、机の下で両手をニギニギしなさい。机の下なら誰にもわからないでしょう? そうすることで、頭に上った血を下げ、意識を手に集中させれば、逆上を抑えられます。」
なーるほど・・・。
その後、日本に帰国してから、私は何度、トイレに駆け込んだり、机の下で手をニギニギしたことでしょうか。(苦笑)
それをすることにより、瞬間的な怒りを少しはコントロールできるようになったような気がします。
まずは深呼吸です。

どんなジャンルでも言えることですが、専門用語や難しい言葉、美辞麗句が並んだ言葉で教える人より、誰にでもわかりやすい説明と言葉で教えてくれる人の方こそが、本物だと思います。

それから2009年にラドヌーンのキャンプに参加したとき、シッダ・プラッギャ師が講義を担当してくれました。
彼はまだサマンでした。
ただひとりサマンのままでも、彼はそれを不満に思うこともなく、以前と同じように穏やかで優しく素敵な人でした。
俗の世界どっぷりの私は、やっぱり思いました。
なぜアチャリアはあんなに優秀で人間的にも素晴らしい彼をムニにしないんだろう・・・と。
そのことがとても気がかりでした。

そして昨年ラドヌーンを訪れた際、知らず知らずシッダ・プラッギャ師を探している私がいました。
ある日、ムニたちがいる建物のそばを通った時、「なんか似ている人がいるなぁ。」と思いましたが、髪の形も違ってマスクもしているためよくわかりません。
そこで翌日、思い切って彼に似ているムニに、どさくさに紛れて近づいた時のことです。
私を覚えてくれていたのか、彼は私を見てニッコリと微笑み、小さく手を振ってくれたのです。

ムニになったシッダ・プラッギャ師

ムニになったシッダ・プラッギャ師

わぁ~! やっぱり彼だ♪♪♪
うれしさのあまり抱きつきたいほどでしたが、彼を断食させてはいけないので、ぐっとこらえました。
「良かった。ムニになっていた。」
涙がにじむほどに私は嬉しい気持ちでいっぱいになり、そのことだけでも、今回ラドヌーンへ来た甲斐があったというものです。
 
ジャイナ教のプレクシャ・ディヤーナは、宗教ではありません。
どう生きていけばいいのかを教えてくれるものです。
誰も信じませんが、私はヨガをやる前は病弱でした。
アサナを行い、呼吸を深く心がけ、食べ物を変えることにより、体質が改善されおかげさまで健康体となりました。
そしてこのプレクシャ・ディヤーナで、心の健康を得ることができ、少し生きることが楽になりました。

私が毎回、この瞑想キャンプに参加するのは、自分自身をリセットし、教えを忘れぬよう確認するため、そして心の清らかなムニやサドヴィたちに会いたいがために、私はインドを訪れるのだと思います。
この「インド瞑想の旅」のお話はこれでおしまいです。
お付き合いいただきありがとうございました。

私の自分探しの旅はまだまだ続きます。



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One Response to “インド瞑想の旅 その11 -最終章 聖地ラドヌーン”

  1. 長島聡子 より:

    真知子さん、深い素敵なメッセージでした。なんだか勇気づけられました。これからも楽しみにしています。

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