さて、イケメンの後継はさておいて、砂漠の中をバスに揺られ、日没後暗くなってラドヌーンへ到着。
ラドヌーンの街外れに ジェイン・ヴィシュヴァ・バーラティと呼ぶジャイナ教のセンターがあり、その広大な敷地の中には、センターのオフィス、大学、図書館、博物館、集会や説教のための大ホール、僧侶の滞在施設、信徒の宿泊施設、瞑想道場などがありテーラパンタ派の本拠地になっています。
ここを訪れる度に新しい建物が増え、整備され、どんどんきれいになっています。
ブーゲンビリアだけでなくいろいろな花が咲き、芝生があるところは、水を受け緑色に輝き、リスや犬と同じように普通に孔雀がいます。まさに楽園。
私たちが1週間お世話になる宿泊施設は、4年前と同じゲストハウスです。懐かしい。
なんとルームクリーニングをしてくれていた男の子と再会。嬉しくなって覚えているかと聞いいたら、恥ずかしそうに首を振ったような・・・気がした。彼はもう青年になっていました。
部屋に荷物を解いて、翌朝からいよいよ瞑想キャンプのスタートです。
が・・・その前に私たちが勉強している「プレクシャ・ディヤーナ」とは何ぞや?
「ジャイナ教とは何ぞや?」というところから始めないとわかんないね。
ジャイナ教は仏教とほぼ同じ時代、同じ地域に生まれた宗教で、仏教と多くの共通点があります。
シャカと並び称される聖者バガヴァン・マハヴイーラによりジャイナ教は開かれました。
ジャイナ教ののジナとは自分に打ち勝った勝利者、煩悩に打ち勝った解脱者のことです。
おおざっぱにいうと白衣派と空衣派(裸行派)があり、白衣派は白い僧衣をまとっていますが、裸行派(ディガンバラ)はアッパリグラハ(無所有)を徹底するため僧衣さえまとわず、つまりスッポンポン。インドのTVニュースで見たことがありますが、道を歩くのも、しつこいようだけど、本当にみごとにスッポンポン! 残念ながら私はディガンバラ派のお坊さんには、お目にかかったことがありません。女性は解脱できないということで、女性の僧はいませんが、いたら大変なことに・・・。
白衣派で偶像崇拝をしないテーラパンタ派に、私たちは瞑想を学んでいます。(よかった僧衣を着ていて・・・)
その瞑想法は「プレクシャ・ディヤーナ」といい「知覚瞑想」という意味です。
1975年にテーラパンタ派の10代目最高指導者だった故アチャリア・マハプラギャが、みんなにわかりやすく、誰にでもやりやすいように、整理して構築された瞑想法です。
普通、禅寺などで座禅を組んで半眼になり「無になれ! 考えるな!」と教えてくれます・・・が、実際そんな難しいことは、素人には無理ですよね。
私も座禅を何度か組んだことがありますが、半眼にして「見るようで見ない」しかも「寝ない」ということがまず無理。寝ちゃう。zzz どーしても寝ちゃいます。睡魔に襲われ、身体がぐらっとして、寝ていたのがバレちゃう。
直堂と呼ばれる監督者が回ってきて、肩を警策(修行者の肩ないし背中を打つための棒)で打ってくれます。
いつだったかヨガの先輩でもあり、友人のマツ○○さんは、その警策で肩を打ってもらった時に、「もっと強く、もっと叩いて!」と禅寺の住職に、肩こり解消代わりに頼んでいたことがありました。ご住職はそれに応えてビシバシ打ってくださいましたが、ホント申し訳なかったけど、笑えた。(苦笑)
ま、考えるなと言われても、頭の中でいろんなことが、ぐるぐると駆け巡って、座禅を組んだときは、いかに思考を止めることが難しいかを学んだのでありました。ハイ
この知覚瞑想法というのは、最終的には「サマージー 本当の自分に出会う」という目的があります。
最初はまずすべての力を抜くカヨウッサグから始まり、背骨に意識を集中してエネルギーを通すアンタルヤートラ、呼吸に集中するシュバーサ・プレクシャ、身体を知覚するシャリーラ・プレクシャ、霊的中心点ケンドラ(ヨガではチャクラ)を知覚するチャイタニア・ケンドラ・プレクシャ、霊的色彩光を知覚するレーシャ・ディヤーナによって、各々集中をすることにより、瞑想を深めていきます。
ここまでは考えない瞑想法。
唯一、考える瞑想法もあります。それがアヌ・プレクシャ。自分の潜在意識に向かって、こうなりたいという願いを心と体にしみこませるようにして自らを高めていくのですよ。願いといっても、お金持ちになりたいとか、異性にもてたいとかはナシね。
次号ではいよいよキャンプでのお話をしますね。
乞うご期待!
To be continued!